clione clitiques

Jul 26 2014
飲み会の際に、携帯で泣きながら男と話している女の子を見かけ、その会話にがまんできなくなって携帯を奪い取り「俺はシャアだが、」と名乗って相手に説教を始めたことがある

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例えば、ネイマール。彼の体幹はとても自由な状態になっています。ボールを見に行ってはいますが、首を縮めてはいません。からだ全体が自由になっているので、重心移動が自由自在で、ネコのように柔らかい対応ができるのです。

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人は実名では酷いコメントを書きにくくなる、というのが背景にあるアイデアだった。しかし、実際には多くの真っ当なコメンターが書くのをやめる一方で、多くの愚か者が実名(あるいは、Googleが実名だと〈思った〉名前)で同じ行動を続けた。

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ここから先は、あまり言うと、すごく人格を疑われたりしたらいやだなとも思うけれど、お話しておきたいことがあります。


 強姦や強制わいせつの否認事件というのは、暴行・脅迫の程度を争うこともあるけれども、被害者の承諾の有無で争うことの方が圧倒的に多いです。被害者とされる人の承諾があれば、それは強姦になるわけがないのであります。保護法益は性的自由ですから。性的自由を侵害していなければ、強姦になりえない。


 で、何で承諾が争われるのか?ここから先の話は、強姦事件に関する刑事弁護のイメージを持ってもらうための話ですよ。決して僕が、強姦事件や、ましてや強姦の被害者を揶揄しようという気持ちは全くない。そうではなくて、実務で、何で承諾が問題になるのか???というイメージをつかんでいただきたいからあえてお話しするんですけれどね。


 一言で言うと、犯人として疑われる、そういう人の、うぬぼれなんだよね。


 たとえばね、ある強制わいせつの事件ですけれども、デパートの店員、化粧品売り場かなんかの女性店員ですよ、その人にしつこく色々絡む男がいる。それが私の弁護した被告人です。


 化粧品売り場のその店員さんは、しつこく絡まれて、泣きたくなるぐらい嫌な思いをするわけですよ。それで、でもデパートだから、あまりきつく対応できない。

 
 で、「この女の子の対応が悪い」って、男が怒り出してね。何か、応接室みたいなところで話をさせろといって、しょうがないなと上司などもいって、別室に移動する。そこで、二人だけで部屋に入って、カギをかけちゃうんだよね。で、わいせつ行為を働く。


 そんなの誰が見たって有罪だと思うかもしれないけれど、その事件で、「いや、承諾があった」って被告人は言うんだよ。その被告人の顔も名前も、今でも私はよく覚えています。「いや、この女の子は、僕が部屋の中で行ったわいせつ行為を、全然拒否しなかったし、応じてましたよ」とかって言うんですよね。


 弁護人の立場を離れて、本音で個人としての感想を言うならば、「おまえ、ふざけるな」という感じですよ。デパートで化粧品売り場でギャンギャンクレームを言って、別室に連れ込んで、わいせつ行為をされて、喜ぶ女の人がいるわけがないじゃないか、といいたいですよね。


 だけどね、その被告人は、本当に本気で、真顔で、承諾があったといっているんです。どうもね、ただの言い訳じゃなくて、心底そう思っているんだ。


 こういう、男がうぬぼれて、自分がアプローチすれば女性が、姦淫行為やわいせつ行為に応じるんだ、と思い込んでいるバカ、バカといってしまってはいけないですが、そういうケースがあるんですよ。客観的に誰が見たって承諾があるはずがない、だけどもちろん、承諾がないということについて認識がなければ故意がないですよね。そういう認識がないといって争う。本当にこいつが心底うぬぼれていて認識がないなら、それは少なくとも錯誤ですよね。


 そういった事件は、刑事事件だけではなくていわゆるセクハラ事件などでもね、ハラスメントを受けている職場の女性は面と向かって言わないが、上司である男が、それをいいことに、うぬぼれて、この子は俺に気があるなんて思って、へんなことをして。そんなゆがんだ女性観、恋愛観というものが問題となる事案が多いことは知っておいていただきたいと思います。(後略)

強姦犯の心理 Uramako事務局/ウェブリブログ (via rajendra) (via starchart) (via starcat) (via e-tag) (via forzando) (via uessai-text) (via salz)

2009-12-28

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痴漢冤罪のニュース、「無罪の決め手になったものはなんでしょうか?」って、なんでしょうかじゃねえよ。有罪の決め手がなければ無罪だろ。

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社員も一歩会社から離れれば生活者であり、買い手です。買い手としては、自分たちの消費パターンがまったく変わり、ニーズが劇的に変化していることを誰もが実感している。ところが、仕事になると一転、売り手側の都合にすり替わり、過去の延長で考えてしまう。そして、立場を使い分けていることに気づいていない。

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検証委員会の指摘は当然だが、このことは計画当初から分かっている筈で、それにもかかわらず農水省が莫大な補助金を投入してきたことが問題である。

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AppleとIBMがまず参入を狙う分野はプレスリリースによれば、小売、ヘルスケア、金融、保険、旅行、運輸、テレコムなどになるという。

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え~っと、、、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません

弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません

虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています

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自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です

個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます
全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます
個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません
ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです

種レベルでは「適者生存」です
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません
「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです
(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)


そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです

必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります
多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、
あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り

「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんです

そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです

10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります


「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

人間の生存戦略は、、、、「社会性」

高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する
個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる”弱者”です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です

どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の”弱者”を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します
人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました

生物の生存戦略としては大成功でしょう
(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)

「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です

遺伝子によって発現されるどういう”形質”が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです

(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)


アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね
ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです

その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです
「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです


我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです

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交渉ってのは相手よりも有利な状況になってる側が勝つのだよ。内容は問題じゃない。学生の討論じゃないんだからね。相手が手ぶらだったら、銃を持ってる奴の要求は飲まなけりゃならん。これが交渉の本質だ。

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